この日記

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「ガキの使い」は何をしてきたのか?

「ガキの使い」の笑ってはいけないシリーズが終わると聞いて、少し気になっていたことを振り返ろうかと思う。 「ガキの使い」だけでなく、もしかするとダウンタウンのお笑いにも言えることかもしれないのだが、「ガキの使い」が行なってきたのは「限界を越え…

ラーメンズ『椿』の『高橋』について

「おう、高橋」 「お、高橋」 「あれ、高橋は?」 「まだ来てない。 もうすぐ来るんじゃないかな、高橋と一緒に」 「あ、じゃあ高橋と高橋どうした?」 「あ、あいつら来られないって」 「まじで? じゃあ高橋と高橋抜きで高橋行くのかよ」 「まああいつらそ…

ジャルジャルの不条理

ジャルジャルについて書きたい。書きたいとは思っているが、どこからどう、はじめればいいかわからない。なぜ書こうと思っているのかはわからないが、少しずつ書いていきたい、と思っている。 ジャルジャルとは「究極のミニマル」で、「省エネ」的な笑いだと…

バナナマンのコントの笑いとは、進行の恐怖である

バナナマンのコントは進行しているものを語るところで行われる。 たとえば「ドッキリ」では、設楽が、日村の誕生日のために、ドッキリを行おうとしていて、その進行が書れている進行台本を日村に読まれてしまうだけのコントは、まさにそんな作りである。 あ…

ミルクボーイは、人間の輪郭を描いている

メモ程度に、少しずつ書いていきます。 相変わらずミルクボーイのことを考えています。それと同時に、いきなり脇道にそれますが。 僕の昔からの知り合いが絵を描いていまして、最近その人のイラストが本の挿し絵に使われることがありました。 その人の描く絵…

ミルクボーイとブラックマヨネーズの漫才について

ダブルのスーツと角刈り。こうしたキャラクターを揶揄するのは簡単だが、言わない。その代わり、角刈りの男(つまり、中年であること)であるために、パフェのかさましに使われているコーンフレークを、「これ以上店が増やそうもんなら、俺は動くよ」と言う言…

ミルクボーイと『さよなら渓谷』は何が似ているのか

ミルクボーイの「コーンフレーク」の面白さについて考えている。 吉田修一の『さよなら渓谷』を読んでいたときに、ミルクボーイの漫才の面白さとの共通性を見つけた。その共通性とは、「少しずつ全体像が見えていく」というものだ。ミルクボーイの漫才では、…

M-1グランプリ 2019 批評・感想 またはミルクボーイはなぜ優勝したのか

今年のM-1は、決勝以前からミルクボーイの漫才をよく見ていた。 彼らの漫才は「コーンフレーク」「最中」「デカビタ」「叔父」「サイゼリヤ」「SASUKE」等のあるあると偏見を交互に挙げていく漫才だ。 それらの「見下せる要素」を言語化していく。 普段生き…

「ねじの回転」 ヘンリー・ジェイムズ 書評

ヘンリー・ジェイムズによる「ねじの回転」は、1890年ごろに書かれた、心理小説だ。 なぜ「ねじの回転」というタイトルなのかというのは、早くに答えが出てきて、それは味気なかったが、確かに不思議と読めてしまう小説であることは確かである。 この本を読…

町田康の『屈辱ポンチ』の中の「けものがれ、俺らの猿と」をちょい読みした。 なにが面白いんだろうかと考えていた。 きゃつら、という言葉は一応存在する言葉だったのに驚いた。言葉の使い所で面白く感じる。 突然きゃつらと呼ぶのは面白いことではないんだ…

2018/7/23

干刈あがた『ウホッホ探検隊』を読んでいる。 この小説では、主人公である母は、「君はあのとき、~をしていたね」というふうに息子が主体のように息子を観察している。「私は」という一人称の語りでもないし、「その男は」という三人称でもない。その時に語…

2018/7/21

吉本隆明『心的現象論 本論』を読んでいる。 初めの五ページ、人間の眼についての文章。 ここでは、眼は、明るい室内から暗い室内に入ったとき、最初は何も見えないが、だんだん目が慣れてきて、その空間の物の配置も見えてくる。これは何故なのか?というこ…