この日記

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バナナマンのコントの笑いとは、進行の恐怖である

 バナナマンのコントは進行しているものを語るところで行われる。

 たとえば「ドッキリ」では、設楽が、日村の誕生日のために、ドッキリを行おうとしていて、その進行が書れている進行台本を日村に読まれてしまうだけのコントは、まさにそんな作りである。 

 ある「進行」を止められない、というのがバナナマンの手つきだ。

 それは「ルスデン」もそうだし、合コン前の二人を描く「Looser」も、打ち合わせを進行するのがコントの軸である。

 その軸にハマり切った時、「Looser」の男たちのこなれた喋り口調は「内輪感」を出し、その進行にハマり切ってしまった男たちの姿が、みょうに面白くなってくる。これは「ドッキリ」における「ここでできればスーパーボール回収」という言葉がそうである。 その効率主義的な心の動きが、どうも面白い。

 その姿に擬態しすぎた結果、そのようにしか生きられない男たちの姿は、みょうな悲しみを作っていく。ある地点まで行った時に、その進行しすぎているもの(人でもよい)の恐ろしさにフォーカスしていくのがバナナマンである。

「Looser」の場合、設楽がまさかこんなずぼらな人間だとは思わなかった、と思った時にはもう遅く、その空間が杜撰に「すでに起こっている」ことで変容していく。 結局、バナナマンは「お前、そんなやつだったのかよ」と言うことが、もう歯止めの効かないところまでいってしまう、その様を描き続けている。

「hasty」はどうだろうか。ここでも二者の関係はずっともう歯止めの効かないほどの「お前、そんなやつだったのかよ」で占められている。もう彼らの間には全く相容れない壁があるように思える。 設楽はこのように生きてきたのだし、日村はそういう風には生きれない。 ふたりの間で生きている時間の進行は、まったくちがうもので出来ている。

「a scary story」はどうだろうか。話が下手なだけでおもしろい、というのもすごいことだが、このコントもただ進行するさまを日村がずっと聴いている、その手つきにこそ、バナナマンの真骨頂が出ている。