この日記

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ミルクボーイとブラックマヨネーズの漫才について

ダブルのスーツと角刈り。こうしたキャラクターを揶揄するのは簡単だが、言わない。

その代わり、角刈りの男(つまり、中年であること)であるために、パフェのかさましに使われているコーンフレークを、「これ以上店が増やそうもんなら、俺は動くよ」と言う言葉に説得力が生まれる。
以前の髪型の内海だったら、この言葉は思いの外、毒の強い言葉に聞こえてしまっていたと思う。また、本当に動きそうな気配が感じられなくなる気がする。若者がお笑いをやっている、そんな印象を受けただろう。

本人が本当に思っているように聞こえる、その説得力は大事だ。

ブラックマヨネーズの漫才でも、吉田は本当にそう思って話しているように見える。
「誰が入れたかわからん穴に指を入れなあかん」
「靴もみんなのの使い回しやろ」
といった吉田の言い分は、言われてみるとそうだな、と思った。
以前のミルクボーイの記事で書いたように、このディテールは「みんなが頭の片隅に感じていて」「言語化できなかった"あれ"」に対応するものだ。
ボーリングの汚さは、誰もが感じた事ではないかもしれない。しかし、少数の人間は感じたことのあるもので、現に私は感じたことがある。しかし感じたときも、ボーリングという大人数で遊ぶ場所では、そうした「ふと頭のなかによぎるネガティブなこと」は「必要のないこと」となる。
そんな事を思ったって、誰に言うことも出来ないし、盛り上がるべき場所では考えなくていいことだ。

世間が利便性を追及していくと、どんどん無駄なものは消えていく。実際私たちの生活は歩く歩道やエスカレーターが増えることで身体的な負担はなくなっていった。 身体的な負担がなくなるとは、身体が消えていくことであり、身体の冗長性がなくなっていくということである。 身体の冗長性とは、情報を伝えるためには必要のない、口語でいう「あー」とか、「えっと、」とかそうしたものに近い。私たちの身体には無駄が横溢しているはずだが、そうした不確定なものはいっそう排除されていくように思う。

しかし、見取り図の漫才に対してナイツの塙が言ったように、鼻を触る仕草が多くて、話が入ってきづらい、という指摘は、まさにこうした無駄の横溢であるはずだが、漫才の中ではノイズとなる。
これに対して、ツイッターである方が指摘していたが、ミルクボーイの身体動作は徹底してこうした無駄を排除している。 つまりミルクボーイは、「無価値な言語や記憶」を伝えるために、「無駄な身体運動」を抑制していることになる。

エスカレーターの話に戻ると、身体的な負担を減らして、スマートフォンで余計な情報を減らすことで、便利な時間が増えた。しかし、スマートフォンによって情報の多さに迷うこともあるのだが。その場合、私はどうしても自分の知っている世界に落ちていく、、同じ情報をずっと取り込んでいく。

余計な情報や、余計な記憶、忘れようとするもの、余計な身体運動の澱みの中に、コーンフレークを食べているときのむなしさ、コーンフレークの表紙のトラや、ボウリングの穴に指を入れる不快さという、抑圧した記憶のかけらがある気がするのだが。