この日記

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「ガキの使い」は何をしてきたのか?

ガキの使い」の笑ってはいけないシリーズが終わると聞いて、少し気になっていたことを振り返ろうかと思う。

ガキの使い」だけでなく、もしかするとダウンタウンのお笑いにも言えることかもしれないのだが、「ガキの使い」が行なってきたのは「限界を越えさせること」にあったのではないか?

例えば24時間耐久鬼ごっこという企画がある。この企画においてコンテンツをコンテンツたらしめているのは「24時間」というあまりにも長い時間を鬼ごっこというふざけた遊びに費やすことで、ガキメンバーの限界を超えた顔や行動を起こさせることにこそ、面白さがあるということではないか。それは「やりすぎ」ることによって笑いが起こる、ということを具現化したものだと思う。

例えばまた別の罰ゲームである「浜田がエビアンの水を汲みに行く」という企画も「やりすぎ」ることによって起こる笑いであるし、何より笑ったら尻に罰を与えるという「笑ってはいけない」シリーズも、それを常に徹底し何日もかけて行う、ということに笑いの肝があるように思う。

 

ダウンタウンの笑いはどうだろうか? ガキ使のトークダウンタウンの最高傑作と私は思っているが、そこに「限界を越えさせること」はあるのだろうか?

ダウンタウントークの肝とはなにか、と考えると、松本がいかにして変化のある会話や言葉を使ってしても、まったくなびかず、時には突き放し、時にはそれは面白い、と距離を持って接する浜田とのその関係性にあるように思う。強くテンションを維持したままの松本と、浜田のその絶妙な距離感によって、その舞台の空気は常に緊張と緩和の流れができている。そこに「限界を越えさせること」があるかと考えれば、いわく松本の「笑いを作らなくてはいけない」という使命感による、「崩れ」と「照れ」の間の顔の表情と、独自の言葉によるニュアンスの笑い、それが舞台という緊張感のある場所で発されること、しかしそれでもなおあくまで面白くないものは面白くない、と突き放す意思をいつでまでも持ち続ける浜田の距離感により「限界」は常に松本側に用意されている。

その舞台という場所は松本にとって常に笑いを常に作り出さなくてはいけない、という「限界を超えさせられている」ことの人間のドキュメンタリーになっているからこそ、笑いに繋がっているように思う。 だからこそ、復活してからの(2015年以降)トークは、松本が「限界を超えなくてはいけない」という意思がないように思え、浜田も「常にこの場に緊張を走らせ、限界を越えさせる場所を作る」という意思がない。どちらかといえば浜田は復帰後のトークではにこやかで、松本との会話をただ楽しんでいるようにさえ思える。 そうした二者の会話はもう全てのテレビを制した者たちの余裕の場になっているからこそ、素晴らしい回は今の所出ていないのである。

そうした流れから、ガキの使い「笑ってはいけない」シリーズが終わるのも頷ける。メンバーたちはもう限界を越える必要がなくなっているからだ。放送室で松本が行う執拗な噛みへの言及や、ノーリアクションパイ投げの、陰惨でやりすぎていることに対する笑いと悲惨さの間のような空間、笑い作り、という身体性、感情を伴った笑いが少なくなっていく今後、ガキの使いは、はたまたダウンタウンはどうなるのだろうか。

ラーメンズ『椿』の『高橋』について

 

「おう、高橋」

「お、高橋」

「あれ、高橋は?」

「まだ来てない。 もうすぐ来るんじゃないかな、高橋と一緒に」

「あ、じゃあ高橋と高橋どうした?」

「あ、あいつら来られないって」

「まじで? じゃあ高橋と高橋抜きで高橋行くのかよ」

「まああいつらそういうやつなんだよ あ、でも代わりにあいつが来てくれるって」

「誰? 高橋?」

「ブ~。」

「じゃあ~、高橋?」

「ブ~。」

「わかった!高橋だろ」

「残念でした。 正解は、高橋じゃなくて、高橋~。」

「高橋!? あいつ来てくれるんだ、嬉しいなあ」

「さっき電話で誘ってみたら、高橋も誘ってみるって」

「高橋はいいよ~。」

----ラーメンズ 『椿』より『高橋』

 

 

登場人物二人の名前が「高橋」で、ふたりはお互いを「高橋」「高橋」と呼び合うというコントの冒頭である。

一体、この面白さは何か。また、ラーメンズは何をしているのか。

断言しよう、この面白さは、言葉の差異から生まれるものである。言葉は実は、それ単独で成立していない。言葉の連なりと、そこから生まれる差異のなかで面白さは作られる。 というより、言葉を覚えていくことそれ自体が、なにかとなにかを繋げていく、ということである。

一つの言葉を取ってみても、その言葉には「つながり」がある。具体例から示す。

例えば、シニフィエシニフィアン、という言葉を私は、東浩紀の本に書いてあったな、などと繋がっていく。言葉を現実のなにかとともに連関する。というか、連関せざるを得ない。 この例は他にもいろいろある。子供の頃には頭の中はまっさらなもので、段々とことば(というなにか)と現実(というなにか)がつながっていく。

 

そうした時間の積み重ねを習っていく。例えば、3歳の姪が家に帰ってくると、自分が遊んでたおもちゃやなんかを、元にある位置じゃなくて、私の部屋に勝手に移動させたりする。あとは自分の出したものの片付けが出来ない、ということがある。 これは、おそらく「ここにあったものはここに返す、返さなきゃならない」という、他人からの学習が済んでいないから起こることだ。人はその後、怒られたり注意されることで、「あ、これはここに置いたほうがいいのか」とか「こうしたほうがいいっぽいな」みたいな感じで学習していく。 そうした学習のおかげで日常生活に「普通」を取り入れることになる。例えば会社で自分の持ち物やなんかを他人の机の上にほっぽっちゃう、なんてことがあると、出世どころじゃなくなってしまう。

 

言葉の連関について、別の例を挙げる。「朝食」という一つの言葉を聞くと、私は台所に立つ母の姿が思い浮かぶ。しかもなぜかエプロンをしている。しっかりと記憶を点検してみると、母がエプロンをして台所に立ったことは一回もない。なぜか、台所の母の前にはガラス戸があったりする。

母がまな板にとんとんとんと、包丁をおろしている。朝のあの誰かの話し声が聞こえて、椅子で新聞を読む父の姿、味噌汁、白飯、卵焼き、ベーコンエッグ、などなどが続く。

犯罪を起こす者にとっては、この言葉の連関がうまく行っていない。例えば、朝食、という言葉をイメージしたとき、台所に母は立っていない、という世界像を想像する者がいるとしよう。彼は、子供の頃、朝食では毎日何も食べさせられていなかった、としよう。するとそこでは朝食に対しての経験がないため、ありあわせのなんとなくのイメージが占めることになる。ありあわせのイメージが漫画的リアリズムや虚構的イメージにとどまるとすれば、そのイメージは先の「新聞を読んでいる父」という、私もこのイメージは実際には遭遇していないけど、このイメージが現れる。

これは言わば「朝食のベタ」ともいうべき虚構的幻想である。しかし、問題なのはこうした「朝食のベタ」を、どのように私が解釈するかということなのだ。「朝食のベタ」はおよそ世間の中で流布された形であって、このイメージのまま留まっていてはいけない。 私は「朝食のベタ」である父が新聞を読む姿、を見ていない、だから私の家庭は「普通」じゃなかった、なんていうふうに解釈すること自体が間違いなのである。

では私の思う、普通の家庭とは何か? 「朝食を毎日食べて、父親が働きに出ている」という世界解釈になるけど、これが普通だというのは私の中のイメージの世界の話でしかない。

 

長い迂回をしてしまったが、ラーメンズのネタの場合、この二人は何をどう区別しているのか、ということが不明瞭だが、本人たちにはその違いがわかっている(ように見える)ことが大事だ。

私達の世界線のベタは「人それぞれに名前があって、私たちはそれを元に物、人を区別している」ということだ。しかし、真に驚くことは、私たちは、そうしないと人や物の区別がつかない。ということだ。

 
いつも仲良くしている友達の名前が、それどころか私もあなたも皆、「高橋」という名前だったらどうしようか?そうしたら、私とあなたを分けるのはなにか?こうした思弁的な話になるよりも前に、舞台上で行われるその空間は、ひとまず笑いに包まれる。
それはひとえに、私たちの世界ではひとりひとり名前があって、それを当たり前に享受している。そのことの「当たり前さ」に直面したことへの恐怖からくる笑いに近い。
先に引用したラーメンズのコントの中で、高橋が来ると思ってたら、いや、その高橋が来るのかよ、と小林が言ってガッカリするシーンがある。 観客からすると、いやそこの差はわからねえよ、というのが笑いに繋がるわけだが、
これは、たとえば知らない人同士で話している内容が、ハタから客観的に見ている人間には全然どっちでもいいというか、その絶妙な「知らなさ」に起因している。
最近笑いは世界への興味のなさ、というか傍観者的な立場に立つことで起きるもの、なんじゃないかと思うようになった。
まあだからこそ、無理矢理すべての話を繋げるとしたら、言葉とは繋がりの連鎖だとするならば、「私」と「あなた」も関係の繋がりだ。それは二人だけの関係の世界だ。そこから切り離された第三者的役割=コントの場合は観客の場合、「つながり」というのは微塵も感じていない、知らない世界であるわけで、そこにはなんの文脈もない。つまりはそこでの観客は世界に対する、さきほどの例の「3才児」である。3才児はなにも繋げることができない。「高橋」と「高橋」の関係の深さもわかる由がない。
 

ジャルジャルの不条理

ジャルジャルについて書きたい。書きたいとは思っているが、どこからどう、はじめればいいかわからない。なぜ書こうと思っているのかはわからないが、少しずつ書いていきたい、と思っている。

ジャルジャルとは「究極のミニマル」で、「省エネ」的な笑いだと、友人が言っていた。確かにそれはそうだ、という気もする。なぜジャルジャルについて書くのが難しいかはわからないが、それはおそらく、ものすごく複雑な笑いを行っているからかもしれない。 なにが複雑なのだろう?

話者Aと話者Bがいる上に、観客Cがそれを笑う、という構造を、ものすごく考慮に入れているのがジャルジャルだ。ジャルジャルの笑いは、どうやら観客にだけ判る笑いである気がする。 むろん全ての漫才・コントがそうな気がするが、俯瞰した状態で見るとはじめて笑いになるのがジャルジャルではないか。

たとえばサンドウィッチマンの笑いは、観客がそこにいることで成立するのはもちろんそう、だけど、観客に笑いに繋がる速度が早い。 じょじょに違和感が増えていくような笑いではなく、いちいちの言葉の繋がりで笑えてしまう。 バイきんぐの場合も、あからさまに状況の変化があって、そこから増えていく笑いは観客とのあいだに長いスパンを要さない。

 

だがジャルジャルの場合、笑いは通底して違和感を作っていく。「タメぐち」もそうで、ゆっくりと観客に違和感が広がり、そのあとも状況が変化することはなく、観客には嫌な人間関係のもつれの笑いが生まれていく。言葉をほとんど介さずに笑いが増えていく「変な奴」という、オーディションに来たのに一言も発さず、前を見つめるだけのネタは、歌を歌いに来たはずの後藤が、前を見るだけで、ただ時間が過ぎていく。

ここにあるのは、「歌を歌う」という前提を「しない」というだけの繰り返しに過ぎない。状況が変化しない、通底して笑いが持続するようなこの形は、不条理な笑いでしか浮かび上がらない。ジャルジャルの笑いが、しばしばダウンタウンに通じるのは、このような形があるからではないか。 松本人志VISUALBUMの「寿司」も、結局寿司を潰す「理由」がない。理由がないことと、それが短調に繰り返されること。これが不条理の形なのかもしれないと思う。

 

むりやり、最近読んだ本、猫田道子の「うわさのベーコン」に繋げて話したい。

 

 三月にある演奏会の日時が近くなると、他の奏者は、わくわく、どきどき、そわそわなさっていらっしゃるのに、私だけ落ち付いていました。私の客人は、私の家族とお友達位です。私に、御親切に「音楽をやめて。」とおっしゃる人が出て来たので、御苦労様ですが、私は音楽をやめたくありませんので、御理解して欲しく思っています。「本当に?」「はい。」「結婚はどうするの?」「結婚はいずれ出来ると良いと思っています。」もし、今から結婚の道を歩むとしても、結局光司さんと結ばれるのではないか、と言われない様に、他の方を見つけようとするでしょう。

 その光司さんが、演奏会の当日、客人になっていました。前はもっと誠実な方だったのに、すっかり落ち込んでしまわれた。身分の低さが目立ちます。

「悪いけど、私はもう貴方に用はない。」

 私は、光司さんと目が合わない様にしてフルートを吹くと、私の上手なフルートを好きな方々が笑っていらっしゃったのに、残念そうな顔に変ってしまわれた。お友達にも、相手にしてもらえなくなりました。

-猫田道子「うわさのベーコン」

 

太字はわたしが強調したものだが、ここにあるのは圧倒的なまでの不条理で、これはもう登場人物の思惑としか言いようのないものだ。理由のない思惑というのは不条理になってしまう。ここでこれを引用してしまって意味がわからなくなって来たので、一旦やめにしたくなってきたが続ける。違和感とはゆっくり作られるものだろうとは思うが、むろん日常のなかから進んでいかなくては、それは理解不能のものとなるだろう。だから周到にジャルジャルダウンタウンも日常をセットするし、そこからの逸脱が目立ってくる。

そうした構造は、うわさのベーコンの中にもある。言葉、や思惑はある決まったフレームがあるのは確かであって、その言葉以前のもの、やルール以前のもの、まで踏み込んでくるのが不条理でもある。 それは「寿司はなぜ潰された状態で出ないのか?」であり、「板前の嫁は隣でなにもしてないけどあれはなんだ?」であり、「なんで面接だと敬語を使わないといけない?」であり、「オーディションに来てまで歌わない奴がいたら面白い」というものだ。 それは思いつきもしなかったなにかであり、「当たり前にされているなにか」でもある。

バナナマンのコントの笑いとは、進行の恐怖である

 バナナマンのコントは進行しているものを語るところで行われる。

 たとえば「ドッキリ」では、設楽が、日村の誕生日のために、ドッキリを行おうとしていて、その進行が書れている進行台本を日村に読まれてしまうだけのコントは、まさにそんな作りである。 

 ある「進行」を止められない、というのがバナナマンの手つきだ。

 それは「ルスデン」もそうだし、合コン前の二人を描く「Looser」も、打ち合わせを進行するのがコントの軸である。

 その軸にハマり切った時、「Looser」の男たちのこなれた喋り口調は「内輪感」を出し、その進行にハマり切ってしまった男たちの姿が、みょうに面白くなってくる。これは「ドッキリ」における「ここでできればスーパーボール回収」という言葉がそうである。 その効率主義的な心の動きが、どうも面白い。

 その姿に擬態しすぎた結果、そのようにしか生きられない男たちの姿は、みょうな悲しみを作っていく。ある地点まで行った時に、その進行しすぎているもの(人でもよい)の恐ろしさにフォーカスしていくのがバナナマンである。

「Looser」の場合、設楽がまさかこんなずぼらな人間だとは思わなかった、と思った時にはもう遅く、その空間が杜撰に「すでに起こっている」ことで変容していく。 結局、バナナマンは「お前、そんなやつだったのかよ」と言うことが、もう歯止めの効かないところまでいってしまう、その様を描き続けている。

「hasty」はどうだろうか。ここでも二者の関係はずっともう歯止めの効かないほどの「お前、そんなやつだったのかよ」で占められている。もう彼らの間には全く相容れない壁があるように思える。 設楽はこのように生きてきたのだし、日村はそういう風には生きれない。 ふたりの間で生きている時間の進行は、まったくちがうもので出来ている。

「a scary story」はどうだろうか。話が下手なだけでおもしろい、というのもすごいことだが、このコントもただ進行するさまを日村がずっと聴いている、その手つきにこそ、バナナマンの真骨頂が出ている。

ミルクボーイは、人間の輪郭を描いている

メモ程度に、少しずつ書いていきます。
相変わらずミルクボーイのことを考えています。

それと同時に、いきなり脇道にそれますが。
僕の昔からの知り合いが絵を描いていまして、最近その人のイラストが本の挿し絵に使われることがありました。
その人の描く絵は確かに巧くて、なるほどここまで行けば、仕事になっていくのだなと思いました。
と、考えていくと、人を描くというのは大事なことだなと。 人のかたち、輪郭を描くというのは、とても初心者には難しいことで、僕なんかは予備校時代を思い出すと全然絵が描けなかったなと、思い出しました。

何を言いたいかと言うと、人の輪郭を描くことは大変に難しくて、それを描けて、リアリティーがあれば、それで感動できるものなんだと思いまして。


そういった創作、またはここでの批評でも、そのようなものを書きたいと思った次第です。

例えばミルクボーイの漫才であっても、僕が以前からこのブログで書いているように、人間を描いているから笑えるのだと思うんですね。ミルクボーイの場合、具体的に言うと、矛盾を抱えていることが、人間の輪郭の1つなんです。

人間が楽しようと思うからコーンフレークは発明されて、でも人間はそのコーンフレークをやっつけ飯だなあ、とどこかで思ってる。この矛盾が生きるということなんじゃないか。そのことを言葉として残し、距離をもって見つめるところにこそ、人間の業の肯定がある。ひいてはそれが人間の輪郭を、浮かび上がらしている。


と、思ったことを書きました。
本当は、ナンバーガールライブ配信を見ていて、
『忘れてた 君の輪郭をちょっと思い出したりしてみた』
という歌詞を聴いて泣いてしまって、それもちょっと関係あるかなと思っていました。

ミルクボーイとブラックマヨネーズの漫才について

ダブルのスーツと角刈り。こうしたキャラクターを揶揄するのは簡単だが、言わない。

その代わり、角刈りの男(つまり、中年であること)であるために、パフェのかさましに使われているコーンフレークを、「これ以上店が増やそうもんなら、俺は動くよ」と言う言葉に説得力が生まれる。
以前の髪型の内海だったら、この言葉は思いの外、毒の強い言葉に聞こえてしまっていたと思う。また、本当に動きそうな気配が感じられなくなる気がする。若者がお笑いをやっている、そんな印象を受けただろう。

本人が本当に思っているように聞こえる、その説得力は大事だ。

ブラックマヨネーズの漫才でも、吉田は本当にそう思って話しているように見える。
「誰が入れたかわからん穴に指を入れなあかん」
「靴もみんなのの使い回しやろ」
といった吉田の言い分は、言われてみるとそうだな、と思った。
以前のミルクボーイの記事で書いたように、このディテールは「みんなが頭の片隅に感じていて」「言語化できなかった"あれ"」に対応するものだ。
ボーリングの汚さは、誰もが感じた事ではないかもしれない。しかし、少数の人間は感じたことのあるもので、現に私は感じたことがある。しかし感じたときも、ボーリングという大人数で遊ぶ場所では、そうした「ふと頭のなかによぎるネガティブなこと」は「必要のないこと」となる。
そんな事を思ったって、誰に言うことも出来ないし、盛り上がるべき場所では考えなくていいことだ。

世間が利便性を追及していくと、どんどん無駄なものは消えていく。実際私たちの生活は歩く歩道やエスカレーターが増えることで身体的な負担はなくなっていった。 身体的な負担がなくなるとは、身体が消えていくことであり、身体の冗長性がなくなっていくということである。 身体の冗長性とは、情報を伝えるためには必要のない、口語でいう「あー」とか、「えっと、」とかそうしたものに近い。私たちの身体には無駄が横溢しているはずだが、そうした不確定なものはいっそう排除されていくように思う。

しかし、見取り図の漫才に対してナイツの塙が言ったように、鼻を触る仕草が多くて、話が入ってきづらい、という指摘は、まさにこうした無駄の横溢であるはずだが、漫才の中ではノイズとなる。
これに対して、ツイッターである方が指摘していたが、ミルクボーイの身体動作は徹底してこうした無駄を排除している。 つまりミルクボーイは、「無価値な言語や記憶」を伝えるために、「無駄な身体運動」を抑制していることになる。

エスカレーターの話に戻ると、身体的な負担を減らして、スマートフォンで余計な情報を減らすことで、便利な時間が増えた。しかし、スマートフォンによって情報の多さに迷うこともあるのだが。その場合、私はどうしても自分の知っている世界に落ちていく、、同じ情報をずっと取り込んでいく。

余計な情報や、余計な記憶、忘れようとするもの、余計な身体運動の澱みの中に、コーンフレークを食べているときのむなしさ、コーンフレークの表紙のトラや、ボウリングの穴に指を入れる不快さという、抑圧した記憶のかけらがある気がするのだが。

ミルクボーイと『さよなら渓谷』は何が似ているのか

ミルクボーイの「コーンフレーク」の面白さについて考えている。
吉田修一の『さよなら渓谷』を読んでいたときに、ミルクボーイの漫才の面白さとの共通性を見つけた。

その共通性とは、「少しずつ全体像が見えていく」というものだ。

ミルクボーイの漫才では、コーンフレークの全体像を、二者が細部を肉付けしていく。パッケージには五角形があり、腕を組んだ虎がいて、という様に。ここで聞き手のイメージの中で、少しずつコーンフレークの全体像が見えていく。それは、本当に僅かな細部だからこそ良い。

『さよなら渓谷』では、ある田舎の平屋で殺人事件が起きたところから始まり、被害者の隣の家に住む容疑者の男の生活を追っていくのが話の主軸である。
容疑者の男が本当に殺人を犯したのかどうかを、報道記者が男の身元を調べるうち、段々と男の全体像が少しずつ露になっていく。

このフォーマットは、ミルクボーイのコーンフレークでも同様だ。
細部によって段々と、対象の全体像が見えていくこと。

余談だが、このような謎が露になっていくというフォーマットは「物語には『謎』がないといけない」という考えとも結び付く。
ミルクボーイの中では、駒場のオカンは決してコーンフレークを思い出せない。
『さよなら渓谷』の犯人の内面は、ずっと作品のなかで隠されたまま進む。もし一言、容疑者が被害者を殺してしまったと言ってしまえば、作品を牽引する謎は解消されて、読み手の想像は閉じてしまう。

因みに、ミルクボーイのANNでの、紅白出場後のコメントで
「びっくりしすぎて、トムとジェリーみたいになった。輪郭から目だけ飛び出たわ」
MISIAさん、って声かけたんだけど、MISIAさんって言ってるときに笑えてきて。 まさか、人生のうちでMISIAさん、って発音するとは、何日か前には思ってなかったから」
といった発言を駒場さんがしてましたが、ものすごいセンスがあると思いました。あと薄化粧のオカンって言わんといて、っていうのも良かったです。意外とブレーンは駒場さんなのかな?と思ったりしました。