この日記

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ジャルジャルの不条理

ジャルジャルについて書きたい。書きたいとは思っているが、どこからどう、はじめればいいかわからない。なぜ書こうと思っているのかはわからないが、少しずつ書いていきたい、と思っている。

ジャルジャルとは「究極のミニマル」で、「省エネ」的な笑いだと、友人が言っていた。確かにそれはそうだ、という気もする。なぜジャルジャルについて書くのが難しいかはわからないが、それはおそらく、ものすごく複雑な笑いを行っているからかもしれない。 なにが複雑なのだろう?

話者Aと話者Bがいる上に、観客Cがそれを笑う、という構造を、ものすごく考慮に入れているのがジャルジャルだ。ジャルジャルの笑いは、どうやら観客にだけ判る笑いである気がする。 むろん全ての漫才・コントがそうな気がするが、俯瞰した状態で見るとはじめて笑いになるのがジャルジャルではないか。

たとえばサンドウィッチマンの笑いは、観客がそこにいることで成立するのはもちろんそう、だけど、観客に笑いに繋がる速度が早い。 じょじょに違和感が増えていくような笑いではなく、いちいちの言葉の繋がりで笑えてしまう。 バイきんぐの場合も、あからさまに状況の変化があって、そこから増えていく笑いは観客とのあいだに長いスパンを要さない。

 

だがジャルジャルの場合、笑いは通底して違和感を作っていく。「タメぐち」もそうで、ゆっくりと観客に違和感が広がり、そのあとも状況が変化することはなく、観客には嫌な人間関係のもつれの笑いが生まれていく。言葉をほとんど介さずに笑いが増えていく「変な奴」という、オーディションに来たのに一言も発さず、前を見つめるだけのネタは、歌を歌いに来たはずの後藤が、前を見るだけで、ただ時間が過ぎていく。

ここにあるのは、「歌を歌う」という前提を「しない」というだけの繰り返しに過ぎない。状況が変化しない、通底して笑いが持続するようなこの形は、不条理な笑いでしか浮かび上がらない。ジャルジャルの笑いが、しばしばダウンタウンに通じるのは、このような形があるからではないか。 松本人志VISUALBUMの「寿司」も、結局寿司を潰す「理由」がない。理由がないことと、それが短調に繰り返されること。これが不条理の形なのかもしれないと思う。

 

むりやり、最近読んだ本、猫田道子の「うわさのベーコン」に繋げて話したい。

 

 三月にある演奏会の日時が近くなると、他の奏者は、わくわく、どきどき、そわそわなさっていらっしゃるのに、私だけ落ち付いていました。私の客人は、私の家族とお友達位です。私に、御親切に「音楽をやめて。」とおっしゃる人が出て来たので、御苦労様ですが、私は音楽をやめたくありませんので、御理解して欲しく思っています。「本当に?」「はい。」「結婚はどうするの?」「結婚はいずれ出来ると良いと思っています。」もし、今から結婚の道を歩むとしても、結局光司さんと結ばれるのではないか、と言われない様に、他の方を見つけようとするでしょう。

 その光司さんが、演奏会の当日、客人になっていました。前はもっと誠実な方だったのに、すっかり落ち込んでしまわれた。身分の低さが目立ちます。

「悪いけど、私はもう貴方に用はない。」

 私は、光司さんと目が合わない様にしてフルートを吹くと、私の上手なフルートを好きな方々が笑っていらっしゃったのに、残念そうな顔に変ってしまわれた。お友達にも、相手にしてもらえなくなりました。

-猫田道子「うわさのベーコン」

 

太字はわたしが強調したものだが、ここにあるのは圧倒的なまでの不条理で、これはもう登場人物の思惑としか言いようのないものだ。理由のない思惑というのは不条理になってしまう。ここでこれを引用してしまって意味がわからなくなって来たので、一旦やめにしたくなってきたが続ける。違和感とはゆっくり作られるものだろうとは思うが、むろん日常のなかから進んでいかなくては、それは理解不能のものとなるだろう。だから周到にジャルジャルダウンタウンも日常をセットするし、そこからの逸脱が目立ってくる。

そうした構造は、うわさのベーコンの中にもある。言葉、や思惑はある決まったフレームがあるのは確かであって、その言葉以前のもの、やルール以前のもの、まで踏み込んでくるのが不条理でもある。 それは「寿司はなぜ潰された状態で出ないのか?」であり、「板前の嫁は隣でなにもしてないけどあれはなんだ?」であり、「なんで面接だと敬語を使わないといけない?」であり、「オーディションに来てまで歌わない奴がいたら面白い」というものだ。 それは思いつきもしなかったなにかであり、「当たり前にされているなにか」でもある。