この日記

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ラーメンズ『椿』の『高橋』について

 

「おう、高橋」

「お、高橋」

「あれ、高橋は?」

「まだ来てない。 もうすぐ来るんじゃないかな、高橋と一緒に」

「あ、じゃあ高橋と高橋どうした?」

「あ、あいつら来られないって」

「まじで? じゃあ高橋と高橋抜きで高橋行くのかよ」

「まああいつらそういうやつなんだよ あ、でも代わりにあいつが来てくれるって」

「誰? 高橋?」

「ブ~。」

「じゃあ~、高橋?」

「ブ~。」

「わかった!高橋だろ」

「残念でした。 正解は、高橋じゃなくて、高橋~。」

「高橋!? あいつ来てくれるんだ、嬉しいなあ」

「さっき電話で誘ってみたら、高橋も誘ってみるって」

「高橋はいいよ~。」

----ラーメンズ 『椿』より『高橋』

 

 

登場人物二人の名前が「高橋」で、ふたりはお互いを「高橋」「高橋」と呼び合うというコントの冒頭である。

一体、この面白さは何か。また、ラーメンズは何をしているのか。

断言しよう、この面白さは、言葉の差異から生まれるものである。言葉は実は、それ単独で成立していない。言葉の連なりと、そこから生まれる差異のなかで面白さは作られる。 というより、言葉を覚えていくことそれ自体が、なにかとなにかを繋げていく、ということである。

一つの言葉を取ってみても、その言葉には「つながり」がある。具体例から示す。

例えば、シニフィエシニフィアン、という言葉を私は、東浩紀の本に書いてあったな、などと繋がっていく。言葉を現実のなにかとともに連関する。というか、連関せざるを得ない。 この例は他にもいろいろある。子供の頃には頭の中はまっさらなもので、段々とことば(というなにか)と現実(というなにか)がつながっていく。

 

そうした時間の積み重ねを習っていく。例えば、3歳の姪が家に帰ってくると、自分が遊んでたおもちゃやなんかを、元にある位置じゃなくて、私の部屋に勝手に移動させたりする。あとは自分の出したものの片付けが出来ない、ということがある。 これは、おそらく「ここにあったものはここに返す、返さなきゃならない」という、他人からの学習が済んでいないから起こることだ。人はその後、怒られたり注意されることで、「あ、これはここに置いたほうがいいのか」とか「こうしたほうがいいっぽいな」みたいな感じで学習していく。 そうした学習のおかげで日常生活に「普通」を取り入れることになる。例えば会社で自分の持ち物やなんかを他人の机の上にほっぽっちゃう、なんてことがあると、出世どころじゃなくなってしまう。

 

言葉の連関について、別の例を挙げる。「朝食」という一つの言葉を聞くと、私は台所に立つ母の姿が思い浮かぶ。しかもなぜかエプロンをしている。しっかりと記憶を点検してみると、母がエプロンをして台所に立ったことは一回もない。なぜか、台所の母の前にはガラス戸があったりする。

母がまな板にとんとんとんと、包丁をおろしている。朝のあの誰かの話し声が聞こえて、椅子で新聞を読む父の姿、味噌汁、白飯、卵焼き、ベーコンエッグ、などなどが続く。

犯罪を起こす者にとっては、この言葉の連関がうまく行っていない。例えば、朝食、という言葉をイメージしたとき、台所に母は立っていない、という世界像を想像する者がいるとしよう。彼は、子供の頃、朝食では毎日何も食べさせられていなかった、としよう。するとそこでは朝食に対しての経験がないため、ありあわせのなんとなくのイメージが占めることになる。ありあわせのイメージが漫画的リアリズムや虚構的イメージにとどまるとすれば、そのイメージは先の「新聞を読んでいる父」という、私もこのイメージは実際には遭遇していないけど、このイメージが現れる。

これは言わば「朝食のベタ」ともいうべき虚構的幻想である。しかし、問題なのはこうした「朝食のベタ」を、どのように私が解釈するかということなのだ。「朝食のベタ」はおよそ世間の中で流布された形であって、このイメージのまま留まっていてはいけない。 私は「朝食のベタ」である父が新聞を読む姿、を見ていない、だから私の家庭は「普通」じゃなかった、なんていうふうに解釈すること自体が間違いなのである。

では私の思う、普通の家庭とは何か? 「朝食を毎日食べて、父親が働きに出ている」という世界解釈になるけど、これが普通だというのは私の中のイメージの世界の話でしかない。

 

長い迂回をしてしまったが、ラーメンズのネタの場合、この二人は何をどう区別しているのか、ということが不明瞭だが、本人たちにはその違いがわかっている(ように見える)ことが大事だ。

私達の世界線のベタは「人それぞれに名前があって、私たちはそれを元に物、人を区別している」ということだ。しかし、真に驚くことは、私たちは、そうしないと人や物の区別がつかない。ということだ。

 
いつも仲良くしている友達の名前が、それどころか私もあなたも皆、「高橋」という名前だったらどうしようか?そうしたら、私とあなたを分けるのはなにか?こうした思弁的な話になるよりも前に、舞台上で行われるその空間は、ひとまず笑いに包まれる。
それはひとえに、私たちの世界ではひとりひとり名前があって、それを当たり前に享受している。そのことの「当たり前さ」に直面したことへの恐怖からくる笑いに近い。
先に引用したラーメンズのコントの中で、高橋が来ると思ってたら、いや、その高橋が来るのかよ、と小林が言ってガッカリするシーンがある。 観客からすると、いやそこの差はわからねえよ、というのが笑いに繋がるわけだが、
これは、たとえば知らない人同士で話している内容が、ハタから客観的に見ている人間には全然どっちでもいいというか、その絶妙な「知らなさ」に起因している。
最近笑いは世界への興味のなさ、というか傍観者的な立場に立つことで起きるもの、なんじゃないかと思うようになった。
まあだからこそ、無理矢理すべての話を繋げるとしたら、言葉とは繋がりの連鎖だとするならば、「私」と「あなた」も関係の繋がりだ。それは二人だけの関係の世界だ。そこから切り離された第三者的役割=コントの場合は観客の場合、「つながり」というのは微塵も感じていない、知らない世界であるわけで、そこにはなんの文脈もない。つまりはそこでの観客は世界に対する、さきほどの例の「3才児」である。3才児はなにも繋げることができない。「高橋」と「高橋」の関係の深さもわかる由がない。