この日記

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ごっつええ感じの「Angelちゃん」について 天使は想像力を運ぶのか

みうらじゅんが言っていたように、松本の笑いとは「不快なもの」を形にすることだった。

初期ごっつええ感じのコント「Angelちゃん」は次のような内容だ。

ピクニックに訪れた浜田と今田が、松本扮する天使を見かけ、「天使がいる!ラッキーだね」と言う。天使は笑顔を二人に向ける。そして浜田たちは天使の前を通りがかる。その際に「こんにちはー!」と挨拶を浜田たちはするのだが、なぜか天使が激高、そのまま二人はなぜか延々と説教される..。といった内容である。

ここにあるのは「人間の内面は理解できない」ことを笑いにする動きである。

本来、「怒り」「悲しみ」は笑いにならなかった。他者は本気で怒っているのだし、本気で悲しんでいる。そのことが笑いに繋がることは本来なかった。だが松本は過剰なまでの「人間を理解しない」というやり方を笑いにした。

本来、人道的に生きる我々は、ここで怒っている天使の「思惑」「意思」「内面」というものを理解したいと思っていた。しかし、人間への不審さ、内面の非理解が進むには、時勢も関係している。

1980年代の映画『家族ゲーム』では、内面を理解しない松田優作が「家族」というかりそめのゲームを終わらせるために現れる。ここにあるのは、内面の非理解、そしてそれが契機として訪れる緊張の空気、しかしそれ全てが無意味にほど近い、ということであった。非理解から訪れる緊張の持続、そこに笑いがある、とこの映画は早くに気づいていた。非理解からなぜ緊張の持続が現れるのか?それは、何が起こるかわからない、ということでもある。そして、非理解がもたらすのは「内面の欠如」である。

内面が欠如した人間が現れるとどうなるか? 彼の行動が予測がつかない、しかも明確な意図もわからない。そして宙吊りの時間=緊張の持続が現れるとどうなるか?

それは徹底的な無意味の戯れへと転じる。内面の無意味性、そして空白の時間の延長。この流れは、北野武の映画へと引き継がれていく。

北野武の映画でも内面は描かれない。彼らのバックボーンは描かれず、空白の時間と空間だけが延々と続いていく。それは映画自体の「時間が過ぎること」という映画性を強調した場となる。そこに時間と空白の無意味性が広がり、私たちは違和感のある場所としてその映画空間を見つめる。

話を松本に戻そう。

松本は「Angelちゃん」で、内面を無視することを選んだ。松本がここで無意味性へと転じたのは非常に興味深い。わからなさ、を笑いにしようとした点も。

不条理が笑いの基盤となった。浜田も今田も、なぜ怒られているのか、わからない。だが、それが笑いに転じる。無論それは「家族ゲーム」や北野武の映画内では、余白が残されていた。「家族ゲーム」では、横並びに食卓を囲むシーンがある。また、緊張の持続がある。そこに現れるのはベンヤミンの言う「アウラ」の出現でもある。それは想像力を駆使する時間でもあった。空白のうちに、なにか別の想像を与えること。

北野武の映画内空間でも、その空白のうちには想像力への余地が残されている。むろんそれは、松本のコントでも引き継がれている。 天使の怒りは、非理解の極みであり、不条理の極みだ。しかし、そこには「なぜ怒るのか?」という内面が空白化されている。空白に想像力を持たせること。ぎりぎりそのラインまで立っていたのがこのコントであった。しかし、今はどうだろう。その空白にはなにも存在しないー文字通り、想像力が及ばない、想像しなくてもいいーという地点まで来てしまった。

映画「ミッドサマー」はどうであったか。村の共同体がなぜそのような行動を起こすのか、明らかにされない。そこにあるのは不条理ー内面の非理解ーであり、それが徹底し、登場人物たちは村に「巻き込まれ」そして無惨な運命を遂げる。

映画「インフィニティ・プール」でも感じたが、我々はもはや、彼らと同一の位置に立たせれているとしか思えない。近視眼的に、ただ意思もなく「見えない何か」に巻き込まれ、ただ悲惨な運命を待ち構えている。そこに想像の余地はない。ただ「そうなって」しまっただけの人物たちが、その運命を引き受ける。

内面の空白化は当然のこととなり、ただ凄惨な出来事に巻き込まれる。そこには余白による想像力がもはや適用しない場所になっている。北野武の映画の、森田芳光の映画の空白は、正しい時間などなく、正しい一個の答えがあるものではない、という予感を孕んだ物語だった。つまりこの場所に、この時間に対してひとつの結果があるのでなく、別の意味、常にこぼれ落ちる意味がある、と指示しているものとなっていた。

松本のコントでもそれはあったように思うが、明らかにそれは非理解へ、つまり余白なんてものも実は空っぽであり、そこにはなにも存在しないーだからどのような暴力的な運命も出来事も降り注いでいいーと解釈された。天使はなにを運んでいたか。それは余白への運動であり、非理解の先にある想像力を運ぼうとしたことだった。しかし、今のフィクション作品、そして、現実の動きは、ある想像力を、余白を、もはや存在しないものとして扱っているーそのような時代に生きているーことを私は思うのだ。