この日記

Twitter @supermarimekko @viruskinn

M-1グランプリ 2019 批評・感想 またはミルクボーイはなぜ優勝したのか

今年のM-1は、決勝以前からミルクボーイの漫才をよく見ていた。
彼らの漫才は「コーンフレーク」「最中」「デカビタ」「叔父」「サイゼリヤ」「SASUKE」等のあるあると偏見を交互に挙げていく漫才だ。
それらの「見下せる要素」を言語化していく。
普段生きているなかでは忘れ去られるような無意識下の思いで、誰もが口にするのを躊躇ってきたような事だ。
だから、そのお題は曖昧で言語化するのが難しいものが多い。
笑いとは「誰もが忘れているようなことを言う」ことだと改めて確認した。私は、忘れかけていた記憶を共有するためにお笑いを見ているのかもしれない。
それは、ミルクボーイの漫才で言えばSASUKEを見ているときしかSASUKEの話をしないことだったり、SASUKEはそのあとに放送される天気予報を見てると内容を忘れること、、、といった、忘れていたことを思い出せる笑いなのだ。

そんな記憶の隅をつつくような笑いは、ダウンタウンを思い出す。
松本人志が「こんなCAは嫌だ」というお題で、「「これ持ってて」と何かを渡された」という回答をしていたことを思い出してほしい。
忘れかけている嫌なことや、細かすぎる何か、そうした笑いに松本人志は拘ってきた。
そうした記憶の共有、やはり笑いに限らず多くの文化は、人間を肯定する。
それは共感という言葉が似合うが、だけど、ここで1つの疑問がある。穂村弘が言ったように、脅威(ワンダー)の笑いもあるはずだ。

今回のM-1ではぺこぱの肯定漫才のなかで現れる。それはボケの人間が横を向いて漫才を始めたあとのツッコミの発言「正面が変わったのか..?」という一言だ。 そこで世界は一変し、正面が変わった世界になってしまう。