この日記

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M-1グランプリ 2019 批評・感想 またはミルクボーイはなぜ優勝したのか

今年のM-1は、決勝以前からミルクボーイの漫才をよく見ていた。
彼らの漫才は「コーンフレーク」「最中」「デカビタ」「叔父」「サイゼリヤ」「SASUKE」等のあるあると偏見を交互に挙げていく漫才だ。
それらの「見下せる要素」を言語化していく。
普段生きているなかでは忘れ去られるような無意識下の思いで、誰もが口にするのを躊躇ってきたような事だ。
だから、そのお題は曖昧で言語化するのが難しいものが多い。
笑いとは「誰もが忘れているようなことを言う」ことだと改めて確認した。私は、忘れかけていた記憶を共有するためにお笑いを見ているのかもしれない。
それは、ミルクボーイの漫才で言えばSASUKEを見ているときしかSASUKEの話をしないことだったり、SASUKEはそのあとに放送される天気予報を見てると内容を忘れること、、、といった、忘れていたことを思い出せる笑いなのだ。

そんな記憶の隅をつつくような笑いは、ダウンタウンを思い出す。
松本人志が「こんなCAは嫌だ」というお題で、「「これ持ってて」と何かを渡された」という回答をしていたことを思い出してほしい。
忘れかけている嫌なことや、細かすぎる何か、そうした笑いに松本人志は拘ってきた。
そうした記憶の共有、やはり笑いに限らず多くの文化は、人間を肯定する。
それは共感という言葉が似合うが、だけど、ここで1つの疑問がある。穂村弘が言ったように、脅威(ワンダー)の笑いもあるはずだ。

今回のM-1ではぺこぱの肯定漫才のなかで現れる。それはボケの人間が横を向いて漫才を始めたあとのツッコミの発言「正面が変わったのか..?」という一言だ。 そこで世界は一変し、正面が変わった世界になってしまう。

「ねじの回転」 ヘンリー・ジェイムズ 書評

ヘンリー・ジェイムズによる「ねじの回転」は、1890年ごろに書かれた、心理小説だ。
なぜ「ねじの回転」というタイトルなのかというのは、早くに答えが出てきて、それは味気なかったが、確かに不思議と読めてしまう小説であることは確かである。
この本を読み進めて思うのは、まず、引っ張るなあ、という感想が第一だった。始めに、主人公はある舘で大勢と共に怖い話を囲んで話している。 何日も大勢で幽霊譚を繰り返し話しているという、羨ましい状況である。とても楽しそうだなと思った。そのうちに重い口を開くのがある男で、あまり話したがらない男があまりにも恐ろしい話がある、とこの大勢に向かって話すのだ。しかも、あまりに恐ろしいと言って何日もしてからその話を話し出す。
とにかく引っ張る。なにかが起こるのをとにかく引っ張るというのがこの本の特筆というか重きにおいているところなのは、この話の出だしからわかる。
そこで話される内容というのが、ある20才の家庭教師の「わたし」ひとりだけが見た、教え子のマイルズとフローラのもとに取り憑く幽霊の話である。
幽霊というのは恐ろしい。それを見た人間が見たと言っても、他の人には見えない可能性がある。それは図らずも、私だけが狂っているかもしれない、つまり、私だけがおかしいのかもしれないという思惑も出てくる。
しかし、この主人公の「わたし」は、そういう風には思わない。「わたし」は絶対に「わたし」と距離をとることができない人なのだ。しっかり事のなりゆきなんかに目を見張ることができる人なのだが、それを見た「わたし」について距離をもって接することはできない人というか。「意識の流れ」と呼ばれる本でもあるが、筆者はこの本を、意識の暴走と思っている。

とにかく、取り憑かれたように、幽霊はいると確信していく。この「わたし」の暴走によってだけ、この本は加速していく。これは一人称の恐怖と呼び変えてもいい。狂ったわたしが暴走して、次第に教え子たちの言葉の端々に疑惑のメスを入れ、ついには全てがわたしを陥れる落とし穴のように感じていく。。と喩えをふんだんに使ってはみたが、この小説でもとにかく喩えが出てくる。喩えが喩えとして伝わりやすく、それは小説の言葉の不思議な穴としても機能していく。言葉によってするりと伝わるもの、形というものが出来上がってくるにしたがって、その幽霊という存在も次第に形をつくり、しかし、面白いことに形が出来上がって、主人公の言葉が事細かになるうちに、幽霊はいないように見えてくる。
なぜか。そこでは主人公の言葉しか響かなくなるのである。主人公はマイルズが思っているであろうことを先回り先回りして、すぐに思考の袋小路に入っていく。そこでは対話はなく、ただ「わたしが幽霊を見たことを、この少年は知っているはずだ」という思考へと堂々巡りしていく。

町田康の『屈辱ポンチ』の中の「けものがれ、俺らの猿と」をちょい読みした。

なにが面白いんだろうかと考えていた。

きゃつら、という言葉は一応存在する言葉だったのに驚いた。言葉の使い所で面白く感じる。 突然きゃつらと呼ぶのは面白いことではないんだけど、それが出てくる順序によって面白く感じる。

面白い、という感慨を持つのは、「順番」による面白さなんじゃないかと最近は思っている。

順番、並び、配列。 たとえば「牛乳、パン、」というだけで朝食っぽく見えるとか、「牛乳、パン、乳製品」になるとご飯のメタっぽくなってしまって味気ない。

「牛乳、パン、綿棒」

と思ってから、接続詞は人間が作ったものであると言う言葉を思い出した。

「牛乳を飲んでから、パンを手に持った。重ね着をしたあとに風が強く吹いてきて、ベランダには裸足の女がいた。」

なんか明確な場面が思い浮かばない。

黒い机の上には、ずっと同じ明るさのままのスイッチ式電球があった。電球も黒かった。その電球は、壊れた豆電球スタンドにくっつけたものだった。そのスタンドの下の部分にラークのアイスミントの青いジャケットのたばこが私から見て下の部分がこちらを向いて置いてあり、文字が並んでいる。その箱の上に白いライターが置いてあった。男はMacに付けるDVDプレイヤーの上の灰皿の少し横に置いてある手触りのいい灰を指でつまんで灰皿の中に戻した。白い煙がいろんな流れで散らばっていく。男はたばこを持つ手が震えているのを気にしないように心がけていると、スタジオで手が震えていた男のことを思い出した。ちょっと思い出して黒縁の眼鏡、触り心地がよくなさそうな髪だった。光はわたしの銀色の側面に薄い形をした奥行きのない四角の中に遺されていく。

女と女の家族と私は歩いていた。女の他に兄弟がふたりいたようで、女と似た顔つきをしていた。女に向かって「代官山にこの前いたよね」と言うと、いたかな、いなかったようなと女はもごもご答えた、家族と離れて公園で女と話している。女はノーメイクでわたしの知っている顔とはまったく違う顔をしていた。ごつごつとした顔つきで醜かった。

36日前に見た夢の話はここで終わり。

言葉の出てくる順番。

町田の屈辱ポンチの中だと、まず主人公が縁側に座ってて、なんとなく庭にある草花を観ることで、おや、なんかゴミが多くないか、、と思う。 家の中にはゴミが散乱していて、庭にあるのはおかしくないか、と思って見に行く。

庭には雑誌、ビニール袋、三輪車がある、そんで塀の外にだすのが順当だと思って振りかぶったときにまた塀から空き缶を捨てられて、それが額に当たる。

そんで倒れ込んで「27秒後」に立ち上がる。

2018/7/23

干刈あがた『ウホッホ探検隊』を読んでいる。

 

この小説では、主人公である母は、「君はあのとき、~をしていたね」というふうに息子が主体のように息子を観察している。「私は」という一人称の語りでもないし、「その男は」という三人称でもない。その時に語られるのは、父の仕事場へ行くところである。

君、は小学生の太郎らしいと読んでいるとわかる。まるで手紙を書いているかのように、君へ向けて語りかけている。

 

実際は母という存在は息子を名前で呼んでいる、というのはなんというか幻想で、ほんとうは息子のことをどう呼んでいるのかわからない。

この本で更に面白いところは、子どもたちがまるで子供のような喋り方をしないということだ。すごく大人っぽい。

 

 

バイトに行った、当たり前だけど。香水の匂いが変わっていた。髪が長い。

2018/7/21

吉本隆明『心的現象論 本論』を読んでいる。
初めの五ページ、人間の眼についての文章。
ここでは、眼は、明るい室内から暗い室内に入ったとき、最初は何も見えないが、だんだん目が慣れてきて、その空間の物の配置も見えてくる。これは何故なのか?ということを例をあげて考えている。
1つ目に挙げられるのは例えば白い紙に細い黒線を書いていくと、その間をじっと凝らして見てみる。すると、その間に虹のようなものが見えてくるという。
これはやったことがないからわからない。
それはさておき、面白く読んだのは

1人間の眼が見て、そこから生理的に対象を理解する時間
2今流れている実際的な時間
3対象そのものの変化

と吉本は3つを腑分けしていることだ。
そして、2-1=3
となるということ。

1はカイロス的時間、2はクロノス時間とも言い換えることができるだろう。(誰の定義だっけか。木村敏かな。)
さらにこれを飛躍させて、実際の時間と自分の時間感覚のズレ、これを補填させるのが心的状態だと言い換えている。

心はつまり実際の時間と自分の視覚や感覚から来る認識のズレを正すようにあるんだろうか?

保坂和志はこれと似たことを言っていたなと思い返す。 視覚は一気にそれを理解する。文で読むときは直列的、視覚は並列的だと。