この日記

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「ねじの回転」 ヘンリー・ジェイムズ 書評

ヘンリー・ジェイムズによる「ねじの回転」は、1890年ごろに書かれた、心理小説だ。
なぜ「ねじの回転」というタイトルなのかというのは、早くに答えが出てきて、それは味気なかったが、確かに不思議と読めてしまう小説であることは確かである。
この本を読み進めて思うのは、まず、引っ張るなあ、という感想が第一だった。始めに、主人公はある舘で大勢と共に怖い話を囲んで話している。 何日も大勢で幽霊譚を繰り返し話しているという、羨ましい状況である。とても楽しそうだなと思った。そのうちに重い口を開くのがある男で、あまり話したがらない男があまりにも恐ろしい話がある、とこの大勢に向かって話すのだ。しかも、あまりに恐ろしいと言って何日もしてからその話を話し出す。
とにかく引っ張る。なにかが起こるのをとにかく引っ張るというのがこの本の特筆というか重きにおいているところなのは、この話の出だしからわかる。
そこで話される内容というのが、ある20才の家庭教師の「わたし」ひとりだけが見た、教え子のマイルズとフローラのもとに取り憑く幽霊の話である。
幽霊というのは恐ろしい。それを見た人間が見たと言っても、他の人には見えない可能性がある。それは図らずも、私だけが狂っているかもしれない、つまり、私だけがおかしいのかもしれないという思惑も出てくる。
しかし、この主人公の「わたし」は、そういう風には思わない。「わたし」は絶対に「わたし」と距離をとることができない人なのだ。しっかり事のなりゆきなんかに目を見張ることができる人なのだが、それを見た「わたし」について距離をもって接することはできない人というか。「意識の流れ」と呼ばれる本でもあるが、筆者はこの本を、意識の暴走と思っている。

とにかく、取り憑かれたように、幽霊はいると確信していく。この「わたし」の暴走によってだけ、この本は加速していく。これは一人称の恐怖と呼び変えてもいい。狂ったわたしが暴走して、次第に教え子たちの言葉の端々に疑惑のメスを入れ、ついには全てがわたしを陥れる落とし穴のように感じていく。。と喩えをふんだんに使ってはみたが、この小説でもとにかく喩えが出てくる。喩えが喩えとして伝わりやすく、それは小説の言葉の不思議な穴としても機能していく。言葉によってするりと伝わるもの、形というものが出来上がってくるにしたがって、その幽霊という存在も次第に形をつくり、しかし、面白いことに形が出来上がって、主人公の言葉が事細かになるうちに、幽霊はいないように見えてくる。
なぜか。そこでは主人公の言葉しか響かなくなるのである。主人公はマイルズが思っているであろうことを先回り先回りして、すぐに思考の袋小路に入っていく。そこでは対話はなく、ただ「わたしが幽霊を見たことを、この少年は知っているはずだ」という思考へと堂々巡りしていく。