この日記

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町田康の『屈辱ポンチ』の中の「けものがれ、俺らの猿と」をちょい読みした。

なにが面白いんだろうかと考えていた。

きゃつら、という言葉は一応存在する言葉だったのに驚いた。言葉の使い所で面白く感じる。 突然きゃつらと呼ぶのは面白いことではないんだけど、それが出てくる順序によって面白く感じる。

面白い、という感慨を持つのは、「順番」による面白さなんじゃないかと最近は思っている。

順番、並び、配列。 たとえば「牛乳、パン、」というだけで朝食っぽく見えるとか、「牛乳、パン、乳製品」になるとご飯のメタっぽくなってしまって味気ない。

「牛乳、パン、綿棒」

と思ってから、接続詞は人間が作ったものであると言う言葉を思い出した。

「牛乳を飲んでから、パンを手に持った。重ね着をしたあとに風が強く吹いてきて、ベランダには裸足の女がいた。」

なんか明確な場面が思い浮かばない。

黒い机の上には、ずっと同じ明るさのままのスイッチ式電球があった。電球も黒かった。その電球は、壊れた豆電球スタンドにくっつけたものだった。そのスタンドの下の部分にラークのアイスミントの青いジャケットのたばこが私から見て下の部分がこちらを向いて置いてあり、文字が並んでいる。その箱の上に白いライターが置いてあった。男はMacに付けるDVDプレイヤーの上の灰皿の少し横に置いてある手触りのいい灰を指でつまんで灰皿の中に戻した。白い煙がいろんな流れで散らばっていく。男はたばこを持つ手が震えているのを気にしないように心がけていると、スタジオで手が震えていた男のことを思い出した。ちょっと思い出して黒縁の眼鏡、触り心地がよくなさそうな髪だった。光はわたしの銀色の側面に薄い形をした奥行きのない四角の中に遺されていく。

女と女の家族と私は歩いていた。女の他に兄弟がふたりいたようで、女と似た顔つきをしていた。女に向かって「代官山にこの前いたよね」と言うと、いたかな、いなかったようなと女はもごもご答えた、家族と離れて公園で女と話している。女はノーメイクでわたしの知っている顔とはまったく違う顔をしていた。ごつごつとした顔つきで醜かった。

36日前に見た夢の話はここで終わり。

言葉の出てくる順番。

町田の屈辱ポンチの中だと、まず主人公が縁側に座ってて、なんとなく庭にある草花を観ることで、おや、なんかゴミが多くないか、、と思う。 家の中にはゴミが散乱していて、庭にあるのはおかしくないか、と思って見に行く。

庭には雑誌、ビニール袋、三輪車がある、そんで塀の外にだすのが順当だと思って振りかぶったときにまた塀から空き缶を捨てられて、それが額に当たる。

そんで倒れ込んで「27秒後」に立ち上がる。